寝ても覚めても自己受容。

暇さえあれば自己受容。インプット→アウトプットの実践日記。

ま、いっか。

人生、しあわせになってしまえばいいんだと思います。「しあわせ」の定義も人それぞれなので誰にとやかく言われる筋合いもありません(と珍しく断言)。

昔、すごく仲良くなった男の子がいました。その子のお母さんがこれまたものすごく魅力的な女性でとっても素敵な人でした。その仲良くなった男の子はヨーロッパを始めアメリカや日本など海外を飛び回る仕事をしていたのであんまり自国にいない人でした。でもわたしたちは彼が一時帰国するたんびに会って映画観たり、食事したり、お茶したりしてだべってました。

それで一度彼がいつもの海外出張しているある週末に彼のお母さんの週末住んでいるセカンドハウスに招かれました。彼がお母さんに買った家でした。海外出張の多い彼は高給取りの上に手当てがたくさん出て、国外で稼いでいる、ということで税金の支払いも大幅に免除されていました。

なぜか息子の友人の日本人の女の子が、ひとり週末自分の家に泊まりに来ている、というフシギな図。それでもお母さんは快くわたしを招き入れてくれました。それで色々スピリチュアルな話になって、彼女はこう言ったのです。

「カウンセリングやセラピーに行っても、結局のところ、自分の抱えてる問題の解決は自分自身に課されたものなのよ。」

至極当たり前のようで奥深い一言でした。カウンセラーやセラピストに自分の問題を丸投げすることなんかできません。彼らはドライブの時に地図を持って助手席に座るナビゲーターのような役割なんだと思います。ハンドルを握っているのは自分自身。答えは自分の中にあるし、自分で行きたい場所を決めて、その目的地に自分で運転して行くことになるのです。


つたない言葉ですみません。


誰に相談しても、誰のところに行っても結局自分で責任を負わなければいけないんですよね。

ってことは、誰に何を言われようと自分の進む道を行けばいい、ということです。


例えば抑圧されている感情の話。他人からそれを直視していない、と言われればそれまで。でも別に自分自身特に悲壮感もなく毎日しあわせなら「無意識に抑圧している」と言われても敢えて無理矢理「意識」の表面に持ってこよう、とも思いません。それで生きて行くことに支障がないのなら何もわざわざそれをやらなくってもいい気がします。何だかこれを無理矢理やろうとして「居心地悪い」、「腑に落ちない」思いを昔しました。他人が今まで「抑圧してきた感情」に勇気を持ってとことん向き合うのとわたしが毎日楽しく生きて行くこととは別物です。


それを他人がどうこう言ってきても別に他人を喜ばせるために生きているわけではないので、


「ま、いっか。」


と、開き直ることにしました。

自分自身が自分に一番ぴったりの答えを持っている、と信じること。それが大事。


辛い気持ちを抑圧した結果出てくるもの、例えばお酒や過食。

これもね、「抑圧するためにやってるのよ」って他人から言われればそれまでのこと。そういう「自分を守る方法」があってもいい。とにかく今の自分を丸ごと受け入れてあげること。

このことに関してとてもこころに響く記事があります。

ameblo.jp

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りんごさんという方のブログです。毎日楽しくいきること。ワクワクする感情を忘れないこと。他人の目を気にするのを止めて自分軸で生きていくのに勇気の出るお話でした。